スポンサーサイト

------

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「父さんの夏休み」03

20101031

01
02



 父の病室は三階の角の相部屋で、ベッドは四つある。けれど今、その部屋を使っているのは父一人だ。
 死期が近い患者がその病室に移されるという、そんな噂を耳にした事がある。なるほど、父がこの部屋に越してきてからというもの、長い闘病生活にピリウドを打ったこの病室の住人を僕は数人知っていた。
 父はそんなことは知ってか知らずか。穏やかに、只その引越しに応じた。
 
 ――無機質な白が、やけに気に障る部屋だった。

 僕は眠っている父を起こさないように、そっと窓を開けた。空調が効き過ぎていて少し肌寒いだろうと思ったからだ。
 窓を閉めていても聞こえていた蝉の鳴き声が、大きくなった。暑い空気と一緒に入って来た――存在を高らかに示すようなそれで、少しでも父の元気が戻れば良いのに。

 父はこの頃、元気を無くしていた。
 半年ほど前に肺に影が見付かったときには、半年の命だろうと医者から言われた。けれどこうして――体にチューブを繋がれながらも、息をしている。
 でも。父はなにか、変に潔くて――それは諦めと呼ぶには乾きすぎていて、僕の目からは残り少ない余生を穏やかに過ごそうとしているようにさえ見えた。

 身体中が痛いはずなのに。
 医者はその痛みを抑える為のモルヒネを、強いものに変えたばかりだというのに。

 けれど、僕は父の口から痛いとか辛いというネガティヴな言葉は、一度も聞いたことが無かった。僕には弱音くらい吐いても良いのに、とも思ったのだが。こうして父の穏やかな寝顔を見ていると、けれど、本当に父は何処も痛くも痒くも無いのではないだろうかという気さえして来る。

 或いは――受け入れた、という事かも知れない。
 普通、人が最も受け入れ難い事実を。自分が死ぬ、という未来を。

 開けていた窓から入って来た風が、カーテンを揺らした。
 時刻は既に夕刻になっていて。その所為か、その風も心なしか柔らかく感じられた。

「……来ていたのか」
 窓の外を眺めていた僕の背中から、父の声が聞こえた。
「ごめん、起こしちゃったか」
 僕は窓の外の、橙に染まる街の風景を眺めたまま答えた。
「いいんだ、もう随分と寝てばかりだからね」

 ようやく振り向いた僕に、父はそう言って笑いかけた。
 ――小さい頃に僕が悪戯をした時に見せた、少し困った様な笑顔だった。

「えっと、替えの下着はいつもの棚に入れておいたから。着た物はこれで全部? もう少ししたら洗濯に行くよ」

 どうしてだろう。なんだかその笑顔を見ていたくなくて、僕は流れた沈黙を破った。
 今の父は――今にも消えてしまいそうで。少し目を離した隙に、窓から差し込む落日の燈に溶けてしまいそうで。

「……敬輔」

 父の重たい口調に、嫌な予感を感じた。この先を訊いてはいけない。なぜかそう思い、僕は刹那、言葉を失した。
 けれど父は、僕に構う事無く、ゆっくりと言葉を続けた。

「敬輔――頼みがあるんだ」

 僕は息を呑んだ。
 窓の外では、病院の庭に植えられている向日葵が夕風に揺られていた。

「頼み? なんだよ、急に」
 僕は出来るだけ平静を装って、そう言った。あわよくば話題が逸れてくれるように、と願っていたのだけれど。
 けれど。そんな僕の思いとは裏腹に。父は少しの間を置いて言葉に重みを乗せ、僕の問いに僕が最も聞きたく無かった答えを返した。
 相変わらず穏やかな口調で。

「急なんかじゃないさ。それに急だとしても、もう時間が無いんだから急ぐのは当然だろう」
「時間が無いって……。そんな、縁起でも無い事言うなよ」
「なぁ、敬輔?」
「……なに」

 父は子供をたしなめるような優しく、けれど鋭さを持たせた視線でゆっくりと言葉を選んでいた。内心では嫌な予感で一杯で、動揺を上手く隠せているかも解らない僕は、その言葉をただ待つ事しかできなかった。
 例えば、遺言。
 妹を頼むだとか、お金はどうなっているだとか。今のうちに、意識がしっかりとしているうちに僕に伝えようとしていたとしても何ら不思議は無い。

 僕たちは父に全てを伝えてはいなかった。いわゆる告知はしていなかったのだ――けれど。子供でもあるまい。自分の置かれる状態や自分の体調について、考えを巡らせない筈も無いだろう。
 そして。その上での最近の妙に乾いた、諦観にも似た振る舞いを目の当たりにしていた僕には、到底父の口からポジティブな言葉を聞けるとは露にも思わなかったのだ。

「写真を――撮ってきて欲しいんだ」
「……え?」

 写真? 僕は少し呆気に取られて、そう答えた。父はそんな僕の心の内など見透かしたように少し悪戯っぽく笑うと、枕元の読書灯の置かれている小さなボックスの引き出しから一冊の本のようなものを取り出した。
 ハードカバーの小説よりも一回り大きなそれは、淡い空色の表紙をしていた。ところどころ擦り切れて色に濃淡があるのを見ると、どうやら随分年季が入っているようだ。
 父はその冊子を僕に手渡した。

「中を見ても?」
「うん。構わないよ」

 表紙を捲ると、最初のページにはこの本よりも古いと思わしき白黒の写真が収まっていた。なるほど、どうやらこの本はアルバムらしい。幾つかのページ毎に一枚の写真が収まっていた。後ろに進むほどに撮影された時期も新しくなるようで、途中からは母の姿も見受けられた。

「その写真の風景を、同じように写して来てくれないだろうか」
「……どうして?」
「大切な思い出だから。その写真は、その情景は」

 言うべき言葉が、見当たらなかった。
 そのセンチメンタルな台詞の所為もあったが、しかしそれだけではなく。
 父の表情が。
 ひどく優しげで、けれど痛みを窺わせるそれが。僕から返すべき言葉を奪ったのだった。

「もう、この目で見る事も叶わないだろうからね」
「そんなこと……」
「もう、いいよ。ありがとう」
「え……?」
「もう解っているから。今まで嘘を吐かせてごめんな、辛かったろう」

 なにを言っているんだ、と。笑い飛ばす事も、怒る事もできたろう。けれど、僕はそうは出来なかった。そんなことは思い付きすらしなかったのだ。
 思わず目線を逸らすと、いつのまにか窓の外では落日がビルの陰に隠れようとしていて、空に藍と茜のグラデーションを描いていた。小さな鳥の陰が帰路を急ぐように、ゆっくりと西へと流れて行った。

「だから、最期の願いだと思って。頼まれてくれないかな」
「そんなこと……」

 嘘かも知れない。
 カマをかけられているのかも知れない。
 何かを悟ったのだとしても、それはほんの一部なのかも知れない。

 ――けれど。

 けれど、父がそう言うのならば。それが父の望みならば。
「そんなこと言われたら……断れる訳無いだろ」
 ありがとう、と。僕の言葉に小さく返して父は柔らかく目を閉じた。
 どうやら話はこれで仕舞いのようだ。
 
 それでも暫くベッドの横に置かれていた丸椅子に腰を掛けてアルバムを眺めていた僕は、やがて小さく聞こえて来た父の寝息を背中に受けながら病室を後にする事にした。
 後ろ手で静かに病室の引き戸を閉め、ひとつ大きく息を吐く。廊下には患者や看護師の声が騒がしく折り重なり、それが妙に僕を安心させた。
 とにかく、家に帰ろう。
 そう思うと僕はスニーカーの先を病院の出口へと向けるのだった。
スポンサーサイト

「父さんの夏休み」 04

20100813

「頼み? なんだよ、急に」
 僕は出来るだけ平静を装って、そう言った。あわよくば話題が逸れてくれるように、と願っていたのだけれど。
 けれど。そんな僕の思いとは裏腹に。父は少しの間を置いて言葉に重みを乗せ、僕の問いに僕が最も聞きたく無かった答えを返した。
 相変わらず穏やかな口調で。

「急なんかじゃないさ。それに急だとしても、もう時間が無いんだから急ぐのは当然だろう」
「時間が無いって……。そんな、縁起でも無い事言うなよ」
「なぁ、敬輔?」
「……なに」

 父は子供をたしなめるような優しく、けれど鋭さを持たせた視線でゆっくりと言葉を選んでいた。内心では嫌な予感で一杯で、動揺を上手く隠せているかも解らない僕は、その言葉をただ待つ事しかできなかった。
 例えば、遺言。
 妹を頼むだとか、お金はどうなっているだとか。今のうちに、意識がしっかりとしているうちに僕に伝えようとしていたとしても何ら不思議は無い。

 僕たちは父に全てを伝えてはいなかった。いわゆる告知はしていなかったのだ――けれど。子供でもあるまい。自分の置かれる状態や自分の体調について、全く考えを巡らせない筈も無いだろう。
 そして。その上での最近の妙に乾いた、半ば諦観にも似た振る舞いを目の当たりにしていた僕には、到底父の口からポジティブな言葉を聞けるとは露にも思わなかったのだ。

「写真を――撮ってきて欲しいんだ」
「……え?」

 写真? 僕は少し呆気に取られて、そう答えた。父はそんな僕の心の内など見透かしたように少し悪戯っぽく笑うと、枕元の読書灯の置かれている小さなボックスの引き出しから一冊の本のようなものを取り出した。
 ハードカバーの小説よりも一回り大きなそれは、淡い空色の表紙をしていた。ところどころ擦り切れて色に濃淡があるのを見ると、どうやら随分年季が入っているようだ。
 父はその冊子を僕に手渡した。

「中を見ても?」
「うん。構わないよ」

 表紙を捲ると、最初のページにはこの本よりも古いと思わしき白黒の写真が収まっていた。なるほど、どうやらこの本はアルバムらしい。

「中には何枚かの写真が収まっている」

 父の言葉に僕はページを進めてみた。父の言う通り、幾つかのページ毎に一枚の写真が収まっていた。ページを捲るほどに撮影された時期も新しくなるようで、途中からは母の姿も見受けられた。

「その写真の風景を、同じように写して来てくれないだろうか」
「……どうして?」
「大切な思い出だから。その写真は、その情景は」

 言うべき言葉が、見当たらなかった。
 そのセンチメンタルな台詞の所為もあったが、しかしそれだけではなく。
 父の表情が。
 ひどく優しげで、けれど痛みを窺わせるそれが。僕から返すべき言葉を奪ったのだった。

「もう、この目で見る事も叶わないだろうからね」
「そんなこと……」
「もう、いいよ。ありがとう」
「え……?」
「もう解っているから。今まで嘘を吐かせてごめんな、辛かったろう」

 なにを言っているんだ、と。笑い飛ばす事も、怒る事もできたろう。けれど、僕はそうは出来なかった。そんなことは思い付きすらしなかったのだ。
 思わず目線を逸らすと、いつのまにか窓の外では落日がビルの陰に隠れようとしていて、空にグラデーションを描いていた。小さな鳥の陰が帰路を急ぐように、ゆっくりと西へと流れて行った。

「だから、最期の願いだと思って。頼まれてくれないかな」
「そんなこと……」

 嘘かも知れない。
 カマをかけられているのかも知れない。
 何かを悟ったのだとしても、それはほんの一部なのかも知れない。

 ――けれど。

 けれど、父がそう言うのならば。それが父の望みならば。
 僕に言える言葉は、ただひとつしか無かった。

「そんなこと言われたら……断れる訳無いだろ」
 ありがとう、と。僕の言葉に小さく返して父は柔らかく目を閉じた。
 どうやら話はこれで仕舞いのようだ。
 
 それでも暫くベッドの横に置かれていた丸椅子に腰を掛けてアルバムを眺めていた僕は、やがて小さく聞こえて来た父の寝息を背中に受けながら病室を後にする事にした。
 後ろ手で静かに病室の引き戸を閉め、ひとつ大きく息を吐く。廊下には患者や看護師の声が騒がしく折り重なり、なぜかそれが妙に僕を安心させた。
 とにかく、家に帰ろう。
 そう思うと僕はスニーカーの先を病院の出口へと向けるのだった。

「父さんの夏休み」 03

20100809

 父の病室は三階の角の相部屋で、ベッドは四つある。けれど今、その部屋を使っているのは父一人だ。
 死期が近い患者がその病室に移されるという、そんな噂を耳にした事がある。なるほど、父がこの部屋に越してきてからというもの、長い闘病生活にピリウドを打ったこの病室の住人を僕は数人知っていた。
 父はそんなことは知ってか知らずか。穏やかに、只その引越しに応じた。
 
 ――無機質な白が、やけに気に障る部屋だった。

 僕は眠っている父を起こさないように、そっと窓を開けた。空調が効き過ぎていて少し肌寒いだろうと思ったからだ。
 窓を閉めていても聞こえていた蝉の鳴き声が、大きくなった。暑い空気と一緒に入って来た――存在を高らかに示すようなそれで、少しでも父の元気が戻れば良いのに。

 父はこの頃、元気を無くしていた。
 半年ほど前に肺に影が見付かったときには、半年の命だろうと医者から言われた。けれどこうして――体中をチューブで繋がれながらも、息をしている。
 でも。父はなにか、変に潔くて――それは諦めにも似ているけれど、そう呼ぶにはあまりに乾きすぎていて、僕の目からは残り少ない余生を穏やかに過ごそうとしているようにさえ見えた。

 身体中が痛いはずなのに。
 医者はその痛みを抑える為のモルヒネを、強いものに変えたばかりだというのに。

 けれど、僕は父の口から痛いとか辛いというネガティヴな言葉は、一度も聞いたことが無かった。僕には弱音くらい吐いても良いのに、とも思ったのだが。こうして父の穏やかな寝顔を見ていると、けれど、本当に父は何処も痛くも痒くも無いのではないだろうかという気さえして来る。

 或いは――受け入れた、という事かも知れない。

 開けていた窓から入って来た風が、カーテンを揺らした。
 時刻は既に夕刻になっていて。その所為か、その風も心なしか柔らかく感じられた。

「……来ていたのか」
 窓の外を眺めていた僕の背中から、父の声が聞こえた。
「ごめん、起こしちゃったか」
 僕は窓の外の、橙に染まる街の風景を眺めたまま答えた。
「いいんだ、もう随分と寝てばかりだからね」

 ようやく振り向いた僕に、父はそう言って笑いかけた。
 ――小さい頃に僕が悪戯をした時に見せた、少し困った様な笑顔だった。

「えっと、替えの下着はいつもの棚に入れておいたから。着た物はこれで全部? もう少ししたら洗濯に行くよ」

 どうしてだろう。なんだかその笑顔を見ていたくなくて、僕は流れた沈黙を破った。
 今の父は――今にも消えてしまいそうで。少し目を離した隙に、窓から差し込む落日の燈に溶けてしまいそうで。

「……敬輔」

 父の重たい口調に、嫌な予感を感じた。この先を訊いてはいけない。なぜかそう思い、僕は刹那、言葉を失した。
 けれど父は、僕に構う事無く、ゆっくりと言葉を続けた。

「敬輔――頼みがあるんだ」

 僕は息を呑んだ。
 窓の外では、病院の庭に植えられている向日葵が夕風に揺られていた。

「父さんの夏休み」 02

20100803

「これじゃあ少し雑な分析だね」

 僕の論文もどきをひとしきり眺めた後、教授はそう言った。無理も無い。単位数が危うく期末試験に必死になっていた僕に、教授を納得させられる論文が書ける筈も無いのだ。

「そもそもサンプル数が少ないし……これ、ちゃんと外れ値は抜いてる?」
 奥山教授は四十を少し過ぎているが、お腹は少しも出ていないし、髪も綺麗に整えて、着ているスーツも見るからに高級そうな、所謂“ナイスミドル”だ。
 本気で彼に恋をした女子学生も居るとか居ないとか。

 とにかく。僕は夏休みに教授に呼び出され、その教授に提出した論文の駄目だしを食らって居るのだった。
 一昨年出来たばかりの真新しい学部棟の十四階に位置する教授室からは、キャンパスを歩く学生が地を這う蟻のように見えた。皆そんなに急いで、一体何処へ行こうというのだろう。

「――早川くん、聞いてる?」
「え、あ……すみません」
「まぁね、気持ちは解るさ」と教授は言い、柔らかそうなソファから腰を上げて僕に尋ねた。「ブラックでいいかな?」

 見ると、教授は丁度ドリップが終わったコーヒーをカップに注いでいるところだった。僕は礼を言い、それを受け取った。

「あの、教授」
「ん?」
「“気持ちは解る”、というのは?」
「ん、あぁ」教授はカップを口に運んで言った。「だって、こう暑いのに仕事でも無い研究なんてやってらんないだろ?」
「教授がそんな事言っちゃっていいんですか……?」
「だって、俺だって大学の頃は勉強なんてしなかったしなぁ」
「知って居ますか? 勤勉な人間ほど決まって言うんですよ。『僕は勉強なんてしてない』って」

 勉強をせずに大学の教授になれるなんて聞いたことが無い。
 しかし、僕の嫌味を受けても尚――それでも、教授は続けた。

「俺が勉強をしたのは院に入ってからだからな」
「……じゃあ学部生の頃は何をしていたんですか」
「あのなぁ。大学生が遊びを覚えなくて、他になにをするというんだ?」

 教授は深い溜息を吐きながら言った。どうやら本気で呆れられているらしい。
 まぁ、八十年代に大学生だった中年に何を言われようが――。

「確かに、早川くんはあまりそういうタイプには見えないけれどね。友達とか少ないだろ?」

 ……訂正をしよう。八十年代に大学生だった中年に言われても傷つく言葉は、確かに存在する。

「得意じゃないんですよ、そういうの」
 僕は相変わらず窓の外を眺めながら、そう呟いた。キャンパスを闊歩し、青春を謳歌する学生たちを眺めながら。
 ふうん、と教授は曖昧な相槌を打ち、手に持ったマグカップに口を付けて言った。
 
「ま。早川くんのプライベートな交遊関係に口を出すつもりは毛ほども無いんだけれどさ」
 そして僕に、僕の論文もどきを付き返して――口元には悪戯な笑みを湛えながら。
「――俺のゼミ生であるからには、もう少しまともな論文書いて貰わなきゃね。いくら優しい俺だって卒業させてあげる訳にもいかなくなるからさ」

 *

 冷房の良く効いた学内のカフェテラスには、夏休みだというのに――けれど授業期間中よりはその数は幾分か少ないとはいえ、多くの学生の姿があった。
 十五分でも立ち尽くせば肌が真っ黒に焼けてしまいそうな日差しを避ける為に逃げ込んだそこで、僕は冷たいカフェラテを口にしていた。煙草でも吸いたい気分なのだが、生憎この場所は禁煙だった。近年の嫌煙の風潮は少々度が過ぎているのではないかと、僕は思う。

「相変わらずぱっとしない顔してるなぁ」

 特に何を考えるでもなく、ぼんやりとしていた僕の正面の椅子をがたりと引き、それに腰を掛けながら彼女は――ゼミの同級生である国広薫(くにひろかおる)は、僕に負けず劣らずのぱっとしない表情でそう言った。

「夏休みだってのに、どうしてこんな所に?」
 僕は頭に浮かんだ疑問を素直に問い掛けてみた。国広は特にサークルにも所属していなかったと記憶していたのだ。
 ちなみに僕もサークル活動はしていない。察するに、僕が奥山教授に『友達が少ない』と言われてしまう理由の一つはそれであろう。

「ああ」
 国広はあからさまに面倒臭そうに、手に持っているアイスティのストローを咥えたまま言った。
「教授に呼び出されちゃってね」

 ……ああ、こいつも僕と同類だったか。

「成程。お前も適当な論文提出したのか」
「ん? いや、そうじゃなくて。論文出さなかったから文句を言われに来ただけだよ」
「…………」

 同類どころか、僕よりも一枚も二枚も上手だった。
 ちなみに論文の提出期限は一カ月以上前であり、教授はこれを提出しなければ前期の単位は与えないと公言さえしていたのに……。

「そう言うお前は期限ギリギリで提出したボロボロの論文について文句言われに来たんだろう?」
「まぁ、そうなんだけど」

 くくっ、と。小さく噛み殺したように国広は笑った。
 提出さえしなかったコイツに笑われる筋合いは無いと思うのだけれど、まぁ今はそれに言及しないでおこう。
 不毛な論戦を繰り広げるには、今日はあまりに暑過ぎるのだ。

「うんうん。『ふっ。お前に言われたくないぜ』とか言い返してこないのは、早川にしては良い判断だね」
「いや。それ俺の真似しているのかも知れないけれど、少しも似てないからな?」
「いちいち細かい男だなぁ」
「そんなキザ男みたいなモノマネをされて黙っている奴は希少だと思うけどな。――それより国広」
「ん?」
「お前、単位ヤバいんじゃなかったっけ? あれ出さないとゼミの単位来ないんだろ?」
「確かに卒業単位数の取得すら危ぶまれている私だが、ゼミの単位に関しては心配は不要なんだ」
「……どういうことだ?」
「嫌だなぁ。一人の乙女としてそんな恥ずかしい事が言えるか」
「お前はあの教授と一体どんな密約を交わして居るんだよ!」
「訊きたいのか? 野暮な奴だなぁ」
「いや……訊かない方が良い気がする。俺の理性が警鐘を高らかに鳴らしている」
「ん。賢明な判断だね」

 国広はそう言うと、再び手元のアイスティのストローを咥えた。
 まさか本当に教授といかがわしい密約を結んではいないと思うが、国広はどこか掴みどころの無い女なので僕としては色々と心配になってしまう。
 具体的には奥山教授が築いた家庭の事や、彼の職の安全など……。

「ところで早川。これから暇?」
「……なんだよ。俺まで悪の道に誘い込もうとしたって、そうはいかないぞ」
「なんだよ、悪の道って」

 国広はくっくっ、と喉を鳴らして笑った。本当に悪の大魔王みたいな笑い方だ。

「暇だからさ。そして何よりも暑いし。良く冷えた美味い黒ビールでも飲んで帰ろうと思って」
「あー。それは確かに魅力的な誘いではあるのだが……」
「なんだ。私からの誘いを断る程の用事でもあるのか?」
「あぁ、ちょっと。――病院に寄って帰ろうと思っていたんだ」

 ああ、と国広は言った。それなら仕方が無いな、と。

「まぁ、そういう事なら心配するな。私が早川の分まで飲んできてやるよ」
「……そりゃあどうも御親切に」
「だから三千円程、徴収する」
「只のカツアゲじゃねぇか!」
「折角人が親切にお前の分までビールを飲んできてやろうってのに、物騒な物言いだな」
「お前、その理屈の立て方は小学生のいじめっ子のそれと同類だぞ!」

 僕がそう言うと、国広は心底愉快そうに笑いながら椅子から立ち上がって言った。

「じゃあ、口惜しいがビールはまたの機会に」
「……奢らないからな」
「えっ!?」
「心底意外そうなリアクションをするなよ! 俺はお前の財布じゃあ無い!」
「まぁ冗談はさておき。――お大事にな」
「別に俺が病気な訳じゃないけどな」
「それはそうだけど。私は早川の親父さんと面識は無いし、『宜しく伝えといてくれ』って言うのも何か違うだろう」
「まぁ、確かに」
「とにかく。また連絡するよ。美味い馬刺しを喰わせる店を見つけたからさ」
「――なぁ、国広」
「ん?」

「――女子大学生の台詞とは思えないぞ、それ」

「父さんの夏休み」 01

20100801

 浅く、霞が掛ったように薄ぼやけた夢だった。僕はその中で――けれど大抵の夢がそうであるように、それが夢だとは少しも気付かずに、一組の男性と女性のやり取りを眺めていた。

「ごめん、これくらいしか思い付かなかった」
 三十を少し過ぎた辺りだろうか、ジーパンにポロシャツというラフな出で立ちをした男性が、少し照れ臭そうに言った。
「あのねぇ」
 男性と同じ年くらいの女性がベッドに腰を掛けたまま、少し怒った様な素振りを見せながら――けれどその目は優しい笑みを湛えて、言った。
 仕方ないわね、と。

「病人を見舞う時は、鉢植えの花は持って来ちゃ駄目なのよ?」
 その言葉に僕はぐるりと周囲を見回してみた。白く統一された室内。行儀良く並んだ幾つかのベッド。なるほど、どうやらここは病室らしい。女性が身に付けているのも入院着のようだった。

「え、どうして」
「病が“根付く”といけないから。まったく。そんな一般常識も知らないでどうするのよ」
 そう言って女性が笑った。身体を患っているとは思えない程、綺麗な笑みだった。
 まるで男性が手にしている向日葵のように。

「だから、これ位しか思い付かなかったんだって。花なんて、全然詳しくないし」
 男性が母親に窘められた少年のように少し不貞腐れて言った。

「でもね、本当は嬉しい。向日葵は大好きな花だから」
 女性がくすりと笑って、言った。それを受けて男性の頬も綻ぶのが見えた。

「ありがとう――あなた」

 *

 わざわざ起こされなくたって、自然と目が覚めてしまうような。そんな猛暑が続いていた。汗がシャツにべったりと染みていて、しかも妹に顔面を平手打ちを三往復ほどされて起こされたとなれば、僕の機嫌が損なわれるのも無理のない話ではあった。

 しかし。そんなことはお構いなしに。
「夏休みだからっていつまでも寝てたら時間が勿体無いでしょう」
 と、断固としてベッドから離れようとしない僕を足蹴にしながら妹は言った。

「……お前なぁ」
「何か文句でもあるの? 家にこんな粗大ゴミが転がっているだけでも不愉快極まりないのに、それをわざわざ起こしに来てあげた健気な妹に労いの言葉の一つも無いわけ?」
「世間一般の健気な妹は、兄に暴力を働いて足蹴にした挙句、それを“起こしてあげた”などと呼称はしないと思うのだけれどな……」

「大体ねぇ」
 妹は僕の反論を受けて、更に追撃を試みたようだ。
「大学生ってそんなに暇なわけ? 兄ちゃんが長期休暇に勉強をする訳が無いのは解るけれど。家でゴロゴロしているなら、アルバイトなり家事を手伝うなりすればいいじゃない。ひょっとして、我が家の兄は学生と言う皮を被ったニートなのかしら。困ったわね、私はこのまま一生寄生虫の面倒を看なければいけないの?」

「…………」

 返す言葉も無かった。何と言う圧倒的な言葉の暴力。
 僕としてもやられっ放しは気に障るのだが、如何せん寝起きであり、低血圧な僕には少々厳しい状況に追い込まれざるを得ないため、ここは黙って暴言の雨を遣り過ごすことにした。

 昔は素直で可愛い妹だったのだけれど。
 いつからこうなってしまったのだろうか……。
 中学生あたりから、だったろうか。

 我が家には母が居ない。妹が生まれてすぐに他界をしてしまったそうで、以来父が男手ひとつで僕と妹を育ててくれた。
 しかし、父は圧倒的に家事が苦手だったようで、妹が中学校に入学する頃には既に家の仕事の殆どは彼女が行うようになっていた。
 家庭に於いて、いわゆる“母親”のポジションに就いた妹は、確かにその頃から僕をあの健気な瞳で『お兄ちゃん』とは呼ばなくなった。
 “お”が抜けて『兄ちゃん』になり、僕に接する際の態度もそれに準ずるようになったのだった。

 僕に散々罵倒を浴びせて少しは満足したのだろう、妹はドアを大きな音を立てて閉め、僕の部屋を出て行った。

 台風一過。
 嵐が去り、突如訪れた平和。

 窓の外では蝉が高らかに声を上げ、その短い生を全うしようとしていた。カーテンを開けると、思わず目を細めてしまう様な青空に、まるで絵具の様な白の入道雲が背を伸ばしていた。

 そういえば。あの夢の病室からも、こんな空が見えたような――そんな気がした。
プロフィール

8

Author:8
機械音痴、方向音痴。

御連絡はこちらへ

名前:
メール:
件名:
本文:

読書カレンダー本棚
読んだ本を視覚的に再確認できるという面白いツール。 あまり胸を張ってお薦め出来るような本も読んでいないのですが。
だべり場、掲示板
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QR
リンク

Pagetop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。