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「父さんの夏休み」 02

20100803

「これじゃあ少し雑な分析だね」

 僕の論文もどきをひとしきり眺めた後、教授はそう言った。無理も無い。単位数が危うく期末試験に必死になっていた僕に、教授を納得させられる論文が書ける筈も無いのだ。

「そもそもサンプル数が少ないし……これ、ちゃんと外れ値は抜いてる?」
 奥山教授は四十を少し過ぎているが、お腹は少しも出ていないし、髪も綺麗に整えて、着ているスーツも見るからに高級そうな、所謂“ナイスミドル”だ。
 本気で彼に恋をした女子学生も居るとか居ないとか。

 とにかく。僕は夏休みに教授に呼び出され、その教授に提出した論文の駄目だしを食らって居るのだった。
 一昨年出来たばかりの真新しい学部棟の十四階に位置する教授室からは、キャンパスを歩く学生が地を這う蟻のように見えた。皆そんなに急いで、一体何処へ行こうというのだろう。

「――早川くん、聞いてる?」
「え、あ……すみません」
「まぁね、気持ちは解るさ」と教授は言い、柔らかそうなソファから腰を上げて僕に尋ねた。「ブラックでいいかな?」

 見ると、教授は丁度ドリップが終わったコーヒーをカップに注いでいるところだった。僕は礼を言い、それを受け取った。

「あの、教授」
「ん?」
「“気持ちは解る”、というのは?」
「ん、あぁ」教授はカップを口に運んで言った。「だって、こう暑いのに仕事でも無い研究なんてやってらんないだろ?」
「教授がそんな事言っちゃっていいんですか……?」
「だって、俺だって大学の頃は勉強なんてしなかったしなぁ」
「知って居ますか? 勤勉な人間ほど決まって言うんですよ。『僕は勉強なんてしてない』って」

 勉強をせずに大学の教授になれるなんて聞いたことが無い。
 しかし、僕の嫌味を受けても尚――それでも、教授は続けた。

「俺が勉強をしたのは院に入ってからだからな」
「……じゃあ学部生の頃は何をしていたんですか」
「あのなぁ。大学生が遊びを覚えなくて、他になにをするというんだ?」

 教授は深い溜息を吐きながら言った。どうやら本気で呆れられているらしい。
 まぁ、八十年代に大学生だった中年に何を言われようが――。

「確かに、早川くんはあまりそういうタイプには見えないけれどね。友達とか少ないだろ?」

 ……訂正をしよう。八十年代に大学生だった中年に言われても傷つく言葉は、確かに存在する。

「得意じゃないんですよ、そういうの」
 僕は相変わらず窓の外を眺めながら、そう呟いた。キャンパスを闊歩し、青春を謳歌する学生たちを眺めながら。
 ふうん、と教授は曖昧な相槌を打ち、手に持ったマグカップに口を付けて言った。
 
「ま。早川くんのプライベートな交遊関係に口を出すつもりは毛ほども無いんだけれどさ」
 そして僕に、僕の論文もどきを付き返して――口元には悪戯な笑みを湛えながら。
「――俺のゼミ生であるからには、もう少しまともな論文書いて貰わなきゃね。いくら優しい俺だって卒業させてあげる訳にもいかなくなるからさ」

 *

 冷房の良く効いた学内のカフェテラスには、夏休みだというのに――けれど授業期間中よりはその数は幾分か少ないとはいえ、多くの学生の姿があった。
 十五分でも立ち尽くせば肌が真っ黒に焼けてしまいそうな日差しを避ける為に逃げ込んだそこで、僕は冷たいカフェラテを口にしていた。煙草でも吸いたい気分なのだが、生憎この場所は禁煙だった。近年の嫌煙の風潮は少々度が過ぎているのではないかと、僕は思う。

「相変わらずぱっとしない顔してるなぁ」

 特に何を考えるでもなく、ぼんやりとしていた僕の正面の椅子をがたりと引き、それに腰を掛けながら彼女は――ゼミの同級生である国広薫(くにひろかおる)は、僕に負けず劣らずのぱっとしない表情でそう言った。

「夏休みだってのに、どうしてこんな所に?」
 僕は頭に浮かんだ疑問を素直に問い掛けてみた。国広は特にサークルにも所属していなかったと記憶していたのだ。
 ちなみに僕もサークル活動はしていない。察するに、僕が奥山教授に『友達が少ない』と言われてしまう理由の一つはそれであろう。

「ああ」
 国広はあからさまに面倒臭そうに、手に持っているアイスティのストローを咥えたまま言った。
「教授に呼び出されちゃってね」

 ……ああ、こいつも僕と同類だったか。

「成程。お前も適当な論文提出したのか」
「ん? いや、そうじゃなくて。論文出さなかったから文句を言われに来ただけだよ」
「…………」

 同類どころか、僕よりも一枚も二枚も上手だった。
 ちなみに論文の提出期限は一カ月以上前であり、教授はこれを提出しなければ前期の単位は与えないと公言さえしていたのに……。

「そう言うお前は期限ギリギリで提出したボロボロの論文について文句言われに来たんだろう?」
「まぁ、そうなんだけど」

 くくっ、と。小さく噛み殺したように国広は笑った。
 提出さえしなかったコイツに笑われる筋合いは無いと思うのだけれど、まぁ今はそれに言及しないでおこう。
 不毛な論戦を繰り広げるには、今日はあまりに暑過ぎるのだ。

「うんうん。『ふっ。お前に言われたくないぜ』とか言い返してこないのは、早川にしては良い判断だね」
「いや。それ俺の真似しているのかも知れないけれど、少しも似てないからな?」
「いちいち細かい男だなぁ」
「そんなキザ男みたいなモノマネをされて黙っている奴は希少だと思うけどな。――それより国広」
「ん?」
「お前、単位ヤバいんじゃなかったっけ? あれ出さないとゼミの単位来ないんだろ?」
「確かに卒業単位数の取得すら危ぶまれている私だが、ゼミの単位に関しては心配は不要なんだ」
「……どういうことだ?」
「嫌だなぁ。一人の乙女としてそんな恥ずかしい事が言えるか」
「お前はあの教授と一体どんな密約を交わして居るんだよ!」
「訊きたいのか? 野暮な奴だなぁ」
「いや……訊かない方が良い気がする。俺の理性が警鐘を高らかに鳴らしている」
「ん。賢明な判断だね」

 国広はそう言うと、再び手元のアイスティのストローを咥えた。
 まさか本当に教授といかがわしい密約を結んではいないと思うが、国広はどこか掴みどころの無い女なので僕としては色々と心配になってしまう。
 具体的には奥山教授が築いた家庭の事や、彼の職の安全など……。

「ところで早川。これから暇?」
「……なんだよ。俺まで悪の道に誘い込もうとしたって、そうはいかないぞ」
「なんだよ、悪の道って」

 国広はくっくっ、と喉を鳴らして笑った。本当に悪の大魔王みたいな笑い方だ。

「暇だからさ。そして何よりも暑いし。良く冷えた美味い黒ビールでも飲んで帰ろうと思って」
「あー。それは確かに魅力的な誘いではあるのだが……」
「なんだ。私からの誘いを断る程の用事でもあるのか?」
「あぁ、ちょっと。――病院に寄って帰ろうと思っていたんだ」

 ああ、と国広は言った。それなら仕方が無いな、と。

「まぁ、そういう事なら心配するな。私が早川の分まで飲んできてやるよ」
「……そりゃあどうも御親切に」
「だから三千円程、徴収する」
「只のカツアゲじゃねぇか!」
「折角人が親切にお前の分までビールを飲んできてやろうってのに、物騒な物言いだな」
「お前、その理屈の立て方は小学生のいじめっ子のそれと同類だぞ!」

 僕がそう言うと、国広は心底愉快そうに笑いながら椅子から立ち上がって言った。

「じゃあ、口惜しいがビールはまたの機会に」
「……奢らないからな」
「えっ!?」
「心底意外そうなリアクションをするなよ! 俺はお前の財布じゃあ無い!」
「まぁ冗談はさておき。――お大事にな」
「別に俺が病気な訳じゃないけどな」
「それはそうだけど。私は早川の親父さんと面識は無いし、『宜しく伝えといてくれ』って言うのも何か違うだろう」
「まぁ、確かに」
「とにかく。また連絡するよ。美味い馬刺しを喰わせる店を見つけたからさ」
「――なぁ、国広」
「ん?」

「――女子大学生の台詞とは思えないぞ、それ」

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