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(sideA-4) 246

20100904

 どうやら、かなり無理をしていたらしい。
 本人も気が付かないうちに、と言う点は僕にとって幸運でもあり、不運でもあった。
 わたしは君の先輩なんだからと言われてしまい、バーで伝票の奪い合いをする事の不毛さに気が付いて素直に割り勘で会計を済ませ、さあ店を出ようとしたその時だった。

「あ、あれっ?」
 椅子から立ち上がった先輩は、真っ直ぐ立つことすら覚束ない様子で、その事に自分自身驚いているようだった。
「だっ、大丈夫ですか?」
「うん、ありがと。おかしいなあ、そんなに酔っ払っているつもりはなかったんだけど……」
 確かに先程までの先輩は全く酔っているようには見えなかった。顔も紅くなっていないし、もちろん呂律が回らないような事も無い。
 楽しくてつい飲みすぎちゃったかな、と先輩は笑った。

「肩、貸しましょうか?」
 バーの木戸を開けて、夏の夜が持つ独特の空気に満ちたアスファルトに立った僕は、先輩の危なっかしい足取りを見かねてそう言った。

「ええーっ? 嫌だよ。新橋のサラリーマンじゃあるまいし。大丈夫、ひとりで歩け」
 と。そこまで口にして、先輩はバランスを崩した。
 ぽすん、と。
 咄嗟に庇うようにした僕の胸に先輩の身体が預けられて、僕はその細くて流れるような髪から薫る少しだけ甘い匂いに目眩を起こしそうになる。

「ご、ごめん」
 僕の胸の中から脱出しようとして、もぞもぞと身じろぎをしながら先輩が言った。
 訪れた数秒間の沈黙。
 車が通りを抜けていく音だけが聞こえる。
「タクシー拾いますから、大きい通りに出ましょう」
 僕はそれだけ言って、先輩の肩を掴んで身体から離すと歩けますか、と訊いた。
 先輩がこくりと頷くのを見て、ゆっくりと人通りの少ない道を歩き始める。

「本当にごめんね」

 心底そう思っているのだろう、しおらしい表情で先輩が言う。
 僕はいえ、とだけ返した。
 先輩がいつバランスを崩しても大丈夫なような位置を保って歩き続ける。
 先輩の履くパンプスの控え目な高さのヒールが立てる音に呼応するように、夜道を照らす自動販売機がぶうん、と唸りをあげた。

「水、飲みますか?」
 自販機を認めて訊ねてみる。
「ううん、大丈夫」
「無理はしないでくださいね?」
「うん。……ねぇ」

 かつ、かつ、かつ。
 一歩一歩、確かめるように歩を進めながら先輩が言う。
「怒ってる?」
 伺うような口調だった。

「え、どうして僕が怒るんですか?」
 先輩が飲み過ぎて、こんな姿になっていることに対してなのだろうか。それだったら、調子に乗って一緒に飲み過ぎた自分も同罪だろう。

 しかし。

 先輩の口から出た言葉は、僕が全く予想していなかったもので、だからだろうか。それは少しだけ僕を動揺させた。
「あの日、無理にオーストリア行きの切符を買ったこと」

 息を呑んだ。
 あの日。あの知らせを聞いた僕は茫然自失としてしまって、それを見た先輩は僕に飛行機のチケットを叩きつけて言ったのだ。忘れもしない。

 ――行って来なよ。見てられないから。

 結果から言うと、僕はその好意を無駄にした。あまつさえ「余計な御世話だ」とチケットを付き返しすらしたのだ。
 今日は――その出来事はもう何年も昔の話なのだけれど、それ以来の再会だった。

「謝るのは僕の方ですよ」
 ようやく大通りに出て、目端でタクシーを探しながら言った。
 行き交う車のランプが夜の街を眩いばかりに照らしている。
「だって。どう考えても余計な事をしたよ、わたし」
 先輩が声のヴォリュームを抑えられずに言う。やはり大分酔っているのかも知れない。

 青山通りを渋谷から流れて来たタクシーを認めて右手を挙げると、緑色の車体がハザードランプを点灯させて、僕たちの前に停まった。
 後部座席のドアが開く。
「本当に、怒ってなんかいませんから」
 それだけ言って笑ってみせたが、先輩はまだ何か言いたそうに不安げな顔をしている。

「定演、楽しみにしてます」
 バーのおつりの五千円札を無愛想な運転手に渡し、頼りない足取りの先輩を座席に押し込むと、先輩も諦めたような表情になった。
「チケットはペアで用意しておくから」
 先輩が笑って言う。彼女を満足させるためには一体だれを連れていけば良いというのだろうか。
 僕は苦笑いをして、おやすみなさいとだけ言った。
 先輩が笑って頷いたのと、タクシーのドアが閉まるのはほぼ同時だった。

 手を振る先輩を乗せた緑色が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた僕は、さて誰を誘おうかとぼんやりとした頭で考えていた。
 一体、先輩は何を思ってペアチケットを用意すると言ったのだろう。
 どうせプライベートなど無いに等しい人間である。個人的な友人から探す気にもなれず、クラシックが好きな自分の担当の作家先生を検索し始めた。
 それと同時に、後悔をした。
 ――また来たの、と静かに笑う顔がフラッシュバックする。

「まったく。何をしているんだ、俺は」
 誰に見せる訳でもない、けれど苦笑いをせざるを得なくて、そんな自分を情けなく感じながら地下鉄の駅に向けて歩を進めるのだった。

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