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(sideB-1) Ballade No.1

20100922

 この世には運が良い人と、そうでない人がいる。

 それは確かな事だと思うし、その上で自分はあまり運が良くない部類の人間だと思っていたのだけれど、今回の一件で私はその考えを改めなければと思い始めた。

 手許の本を閉じ、ぐるりと部屋を見回してみる。

 一人で過ごすには少し大きな部屋。西向きの窓には、もうカーテンが掛っている。
 何と言っても目を引くのは、部屋の中央にある立派なグランドピアノだ。壁を良く見ると無数の小さな穴が等間隔に開いており、ここが防音室なのだと分かる。
 部屋の隅で申し訳なさそうにしている、しかし立派な木製のベッドは現在の私の寝床だ。隣室には小さなシンクとコンロまである。

 壁に掛っている時計に目を遣ると、そろそろ夜の七時になろうかという時間になっていた。もうそろそろ『彼女』が来る時間だ。

 私の幸運は、この寝床を――帰る場所を与えられたこと。
 自分に嫌気が差して、大切な人さえをも傷つけて逃げ出した私を、あたたかく迎えてくれたこと。
 とても静かな、けれどあたたかな場所。
 それを享受することに躊躇いを覚えなかったというと嘘になるが、しかし今は純粋に感謝をしている。

 階段を上がって来る足音が聞こえて来た。木製の階段はだいぶ年季が入っていて、体重の軽い『彼女』でも駆け足で登って来ると、ぎぃ、と軋む音を立てる。
 部屋の扉の前で足音が止まった。呼吸を整えているのかもしれない、乱れた髪を直して居るのかもしれない。

 とんとんとん。
 ノックがみっつ。

 私は椅子から腰を上げる。『彼女』は決して自分でドアを開けないからだ。
 きぃ、と音を立ててドアが開くと、そこには柔らかな笑みを湛えた『彼女』が――薫(かおり)がいた。
 どうしたの、と訊ねると薫は手に持った金色に光る物を私に見せた。

 「それ――紅茶?」

 薫は私の問いににっこりと笑って頷いてみせた。
 私はその缶を受け取り、私は隣の部屋に行き、やかんに水を入れてコンロに火を付ける。
 部屋に戻ると、薫はピアノの前に座って鞄から取り出した楽譜を読んでいるところだった。

 ――薫は、言葉が話せない。

 詳しい事情は聞いていなかったが、どうやら後天的なものらしい。
 だから私と薫のコミュニケーションは、私は言葉で、薫は手話や文字でという形で取っている。

 お湯が沸くのを待っている間、ぼんやりと薫を眺めていると、彼女は思い立ったように、ぱたん、と楽譜を閉じて薫は鍵盤に白くて綺麗な手を乗せた。

 変イ長調のユニゾンが部屋に響いた。
 ショパンのバラード第一番だった。
 私は音楽は全く詳しくないけれど、薫の弾くピアノは、音がきらきらとしていると思う。特に彼女の弾くショパンは儚げで、美しい。
 薫は火にかけたやかんの事などつい忘れてしまいそうな演奏を事も無げにしてしまう。
 気に入らないと止まる事も多い薫だが、今回は珍しく音を続けて紡いでいる。
 力強く、胸を打つ主題が駆けあがって行く。

 ふと見遣ると、カーテンの隙間から、細かい雨が降り始めたのが見えた。
 
 ショパン バラード第一番(youtube)

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